長屋宏和
オフィシャルサイト
コ GO BACK TO コ
第17章 F1日本グランプリ前座レース。そして大クラッシュ
2002年秋。僕からフォーミュラードリームのF-1前座戦に出たいと、「フォーミュラードリーム・オーガニゼイション」に頼んでいて、F-1の前座戦出られることになりました。2002年はF-3で結果を残していないし、このフォーミュラードリームで良い結果を残し、翌年に備えたいと思っていました。フォーミュラードリームにはテストで乗っていて自信があったからです。FDの練習走行は走り出してみると2速と3速が逆に組まれていて、走行出来ませんでした。ブレーキのパットの焼き入れだけして、その日は走行を中断しました。
土曜日のことは、実のところ記憶はありません。フォーミュラードリームの予選は5番手。前日の走行でセットを決められればもう少し前にいたのは確実でしょう。
実は、サーキットに入る前、僕は練習走行で2種類のセッティングを試すつもりでした。それが、予選でレース用のセッティングを出すような状況になってしまったため、セッティングを全て試すことが出来ず、不本意ながら、5番手になってしまったのでしょう。
この状況は記憶にないのですが、きっと、僕ならそうしていたに違いありません。
そして、10月13日、決勝。2周目のスプーンコーナーで、僕は前を走る細川選手に
ブロックされ、自分のラインを走っていたところ、細川選手が寄ってきて、行き場を失い、、細川選手のリアタイヤと僕のフロントタイヤが接触。僕は宙を舞い、タイヤバリアを乗り越えてフェンスの最上段に当たり、着地したようです。
あのビデオを見て「本当に生きていて良かった。」と思うほど自分で自分ではないと思うほど、凄いクラッシュでした。
僕は、意識のないままヘリコプターで鈴鹿中央病院に運ばれ、それから2週間くらい、
記憶がありませんでした。
僕の記憶にあるのは、戸田さんと戸田レーシングのスタッフの方がお見舞いに来ていただいた時からでした。その前に下山もお見舞いに来てくれていたのですが、俺は下山が2度目のお見舞いに来てくれた時が初めてだと思い「お前が来てくれると思わなかった。」と言いました。そうしたら下山に「俺は2回目だ。あほ。」と言われ、悪いことを言ってしまいました。この時の状態は、体はまったく動かないし、クラッシュのショックでぜん息が再発。自分で息をするのは困難で、気管切開していたため、声は出ませんでした。
手足は痺れ、触られるだけで嫌でした。
鈴鹿中央病院のICUには東京厚生年金病院に転院するまで居ました。
しゃべりたくても声がでない。言いたいことを伝えることが出来ず、一番もどかしかったです。首を固定する為に、ハローベストと言う器具を、頭に穴を開けてボルトで固定していました。鈴鹿総合病院ではリハビリと言っても2週間以上寝たきりだったので、筋肉はすべて落ち、関節も固まってしまっていたのでほぐす程度。
寝たきりのため、足に血が行っていなかったので、機械を使って体を固定し、自動的に
身体を立たせて、血の巡りを良くしていましたが、寝たきりの時間が長かったことで貧血がひどかったです。
この頃、まさよしや下山が僕のこのホームページの掲示板をプリントアウトして持ってきてくれるようになったため、それを読み、「みんな、こんなに僕のことを応援してくれているのか。…頑張って復帰してやる。」と思い、これで本当に勇気付けて頂きました。
11月27日、鈴鹿中央病院から東京都にある東京厚生年金病院に転院しました。転院する時、救急車で移動したのですが、東名高速が通行止めになっていて鈴鹿から東京まで10時間以上かかりました。
僕がしゃべれたなら絶対「中央高速で行こう。」といったはずだったのに・・・。
この10時間が辛くて辛くて…。熱は出るし大変だった記憶があります。
鈴鹿中央病院ではずっとICUに居たのですが、東京厚生年金病院に移ったら、リハビリ科でリハビリを中心にやるつもりでした。しかし、まだこの時動くのが、左手首の屈曲のみだったし、ハローベストもまだ付いていたので、頭を動かすことが出来ず、ベットの上で筋肉と関節の硬直をほぐす程度しか出来ませんでした。
次へ→
←ひとつ前に戻る
TOPに戻る
ヨpiroracing.com